大阪地方裁判所 平成元年(ワ)7845号 判決 1997年1月24日
原告
森田宗男
同
森田真美
右両名訴訟代理人弁護士
西口徹
同
千田適
同
寺内清視
右訴訟復代理人弁護士
三浦直樹
被告
国家公務員等共済組合連合会
右代表者理事長
古橋源六郎
右訴訟代理人弁護士
佐古田英郎
右訴訟復代理人弁護士
西野佳樹
同
馬場雅裕
主文
一 被告は、原告らに対し、それぞれ金一五九四万九五五九円及びこれに対する平成元年一〇月一四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は被告の負担とする。
四 この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一 請求
被告は、原告らに対し、それぞれ一六九四万九五五九円及びこれに対する昭和六三年一二月三一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
一 本件は、原告らが、被告に対し、被告の開設する病院における不適切な治療により原告らの子である森田知里(以下「知里」という。)が死亡し、逸失利益一三三二万四〇一八円、慰謝料二〇〇〇万円及び葬儀費用五七万五一〇〇円の損害が発生したところ、その損害賠償請求権を二分の一ずつ取得したとして、診療契約上の債務不履行に基づき、損害賠償を請求した事案である。
二 争いのない事実
1 (当事者)
被告は、大阪市中央区内において、大手前病院を開設している。
原告らは夫婦であり、知里(昭和六三年四月二七日生まれ)は、原告らの間の次女である。知里は、昭和六三年一二月二〇日から同月三〇日までの間、大手前病院において診療を受けたが、同月三〇日、大手前病院で死亡した。
本田敦子(本件当時の姓は中。以下「中医師」という。)は、昭和六二年五月に医師免許を取得し、大阪大学医学部附属病院小児科勤務を経て、本件当時、大手前病院小児科に勤務していた医師であり、知里の小児科の主治医である。
2 (知里が大手前病院で受診するに至った経緯)
原告らは、昭和六三年一一月ころ、知里の目の異常に気付き、知里に近所の眼科で右眼充血の治療を受けさせた。しかし、それから一か月ほど経っても知里の目の症状が治癒しないため、原告らは、さらに詳しく調べてもらう必要があると考え、昭和六三年一二月二〇日(以下特に断らない限り、日付は昭和六三年一二月である。)、大手前病院眼科で、知里に診察を受けさせた。
3 (大手前病院眼科における診療、検査の実施及びその結果)
知里は、二三日、再び大手前病院で診察を受けたところ、大手前病院眼科の保倉医師は、眼圧や眼底などの精密検査をするため、全身麻酔下での検査が必要と判断し、原告らに対してその旨説明を行い、承諾を得た。
知里は、二四日午前九時五〇分ころ、大手前病院に入院し、同病院において、胸部レントゲン撮影、心電図及び心拍等の検査を受けたが、特に健康状態に問題はなかった。そこで、原告らは、同日、知里を自宅に連れ帰り、自宅で一泊させ、二五日午後六時、帰院させた。
保倉医師は、知里に対し、二六日午前九時三五分、全身麻酔を行った上で約三〇分にわたって精密眼底検査等を実施した。
保倉医師は、知里の右眼について、先天性緑内障及びぶどう膜炎と診断し、同日午後、原告森田真美(以下「原告真美」という。)に対し、右検査結果を詳細に説明し、知里に対し手術を行うことができるか否かについては、年が明けてから、阪大病院眼科を受診して決定をすることとして、同原告の了承を得た。
大手前病院の麻酔科医師は、同日午後四時ごろ、知里を診察し、原告真美に対し、眼科の検査に際しかけた麻酔は完全にさめて大丈夫である旨説明した。
4 (小児科における診察、知里が死に至る経緯)
知里は、二六日午前九時三五分からの検査の後、発熱し、下痢の症状があったため、二七日、小児科との共観となったが、知里の高熱及び下痢は続いたため、同日午前一一時一五分、点滴注射による輸液が開始された。
原告真美は、三〇日午前三時ころ、知里から点滴注射が抜針していることに気付き、急遽看護婦を呼んだ。このとき、知里の眼窩は陥没し、四肢の末梢は冷感が強度な状態であった。そこで、看護婦は、保温の措置をとった後、午前四時すぎころ、知里を看護婦詰所へ連れて行った。知里は、同日午前九時二五分、死亡した。
三 争点
1 知里の死因
(一) 原告らの主張
知里は感冒性消化不良により、脱水症状に陥り、循環不全を起こして死亡した。
(二) 被告の主張
知里の死は、知里がインフルエンザに罹患したことにより惹起されたライ症候群によるものである可能性がある。
2 被告の過失及び因果関係
(一) 原告らの主張
被告には、知里の治療に関し、
(1) 中医師は、知里が脱水症状に陥ることを疑って、十分にその症状を観察するべきであったにもかかわらず、
① 頻繁に知里を診察をせず、
② 継続的に血液検査を実施するべきことを指示せず、
③ 唯一、二七日に実施された検査については、その結果のうち脱水症の兆候であるナトリウム値の欠乏を見落とし、
④ 体重測定を実施することの指示をせず、
(2) その結果、知里の脱水症の状態は、三〇日午前三時より前の時点において、輸液の量及び内容を変更しなければならない程度まで悪化していたにもかかわらず、中医師は右の事態が生ずることを予見せず、三〇日午前三時までの間の知里の容体の悪化に応じて、輸液の量及び内容(電解質の改善)を適切に調整することなく漫然と輸液を続け、
(3) 三〇日午前三時ころに、知里から点滴注射が自然抜針していることが発見され、当時既に脱水症の症状がみられたのであるから、脱水症の進行をくい止めるために、直ちに輸液路を確保して輸液を再開すべきであったのに、
① 看護婦は、点滴注射が抜けた際に、直ちに輸液路を確保する措置を採らず、
② 主治医である中医師への連絡を同日午前六時過ぎまでせず、
③ 当直医と主治医が知里に対する輸液路の確保について、経皮的静脈穿刺法を何度も試みて失敗していたにもかかわらず、直ちに静脈切開法(カットダウン)を実施しなかった
点で過失があり、知里の脱水症状は、被告の右注意義務違反により生じたものである。
(二) 被告の主張
(1) 原告らの主張は否認ないし争う。
(2) 知里は、昭和六三年一二月二七日、輸液三七〇ミリリットル、ジュース一〇〇ミリリットル、母乳四〇〇ミリリットル、離乳食二〇〇ミリリットル、以上合計一〇七〇ミリリットル、二八日、輸液六三〇ミリリットル、ジュースニ〇〇ミリリットル、母乳三六〇ミリリットル、以上合計一一九〇ミリリットル、二九日、輸液六六〇ミリリットル、ジュース三〇〇ミリリットル、以上合計九六〇ミリリットル、三〇日、ジュース二五〇ミリリットルの水分補給をしており、知里に脱水症を生ずべき水分不足はない。
(3) 本件においては、二七日から二九日までの間、知里には、右脱水症を認めるべき皮膚緊満度の低下、大泉門の陥没、眼球陥没、粘膜や皮膚の乾燥、乏尿、四肢冷感、意識障害、痙攣、呼吸障害などの症状は認められていなかった。したがって、体重測定をすべき必要性はなかった。
(4) 本件においては、三〇日午前三時ころ、点滴注射が自然抜針してから、同日午前八時三〇分ころ呼吸停止・心停止し、蘇生術開始直後鎖骨下静脈穿刺術が成功するまでの間約五時間三〇分間、輸液路の確保がなく輸液がなされてはいないが、知里に対するそれまでの輸液その他の水分補給量に照らすと、それくらいの時間、輸液路が確保できなくても脱水症によって死亡することはあり得ず、したがって、このことと知里の死亡との間には因果関係がない。
(5) 知里は、インフルエンザからライ症候群を惹起して死亡するに至ったものである。したがって、早期に輸液路を確保し、輸液を行っていたとしても、知里の死亡は避けられなかった。
3 損害額(原告らの主張)
(一) 知里の死亡による逸失利益
一三三二万四〇一八円
昭和六二年度女子一八歳学歴計、産業計の平均賃金年額一六二万三〇〇〇円、新ホフマン係数16.419、生活費控除五〇パーセントとして、計算すると、知里の逸失利益は、一三三二万四〇一八円となる。
(二) 知里の死亡による慰謝料
二〇〇〇万〇〇〇〇円
(三) 葬儀費用 五七万五一〇〇円
知里は、死亡当時わずか生後七か月の乳児であり、原告らが知里を監護していたものである。したがって、知里が死亡したので、原告らが知里の葬儀を行ったものである。
(四) 合計 三三八九万九一一八円
第三 争点に対する判断
一 知里に対する診療経過
前記争いのない事実及び証拠(乙一、本田敦子証言、則岡重代証言、辻野芳弘証言、原告森田真美本人、原告森田宗男本人)によれば、知里の診療経過について、次の事実を認めることができる。
1 知里は、二四日午前一〇時、大手前病院に入院したのであるが、当時の体温は36.9度、心拍数は一三二であり、風邪の症状は見受けられず、体重は七七一〇グラムであった(なお、その後、知里が死亡するまでの間、大手前病院において、知里の体重測定は行われなかった。)。
同日午後四時、知里は、自宅で外泊するため、同病院を出た。
2 知里は、二五日午後六時、自宅から大手前病院に戻ったのであるが、この間、知里の様子に変わりはなかった。
他方、知里の兄典秀は、二五日になってインフルエンザに罹患していたことが分かった。二五日午後七時の知里の体温は36.6度、心拍数は一三二であり、機嫌はよく、風邪の症状はみられなかったし、午後九時の時点でも体熱感はなかった。
3 二六日の知里の状況
(一)(1) 午前一時の呼吸数は三〇であった。
(2) 午前五時までの間に、嘔吐した跡があり、ジュース五〇ミリリットルを飲んだものの、これを嫌がる様子であった。
(3) 午前五時三〇分より、検査の準備のため絶食した。
(4) 午前七時、心拍数は一二〇であった。風邪の症状はなかった。
(二) 知里は、午前九時一五分、手術室に入り、午前九時三五分から午前一〇時まで、精密眼底検査、眼圧検査及び隅角検査を受けた。検査後の病室における知里の体温は37.5度、心拍数は一二〇、呼吸数は四二であり、四肢は温暖であった。
(三)(1) 午後一時、体温は37.2度、心拍数は一〇八であり、水分を摂取でき、嘔吐はなく、ぐずつくこともなかった。
(2) 午後一時一五分には、母乳を摂取した。このときの血圧は九二/四〇であった。
(3) 知里に対し、午前九時一五分から、輸液が行われていたが、医師の指示により、午後三時に中止された。
(4) 午後四時、ぐずつくこともなく、吐気もなかった。
(5) 大手前病院においては、離乳中期の乳児に対し、一日二回食事が出され、その内容は、全がゆを主食として、これにペースト状の副食が付くものである。
知里は、同日の夕食として、主食を二口、副食を二分の一食べた。
(6) 午後七時、体温は38.9度であり、ごく少量の嘔吐がみられ、また、看護婦が接触する際、ぐずつくようになった。そこで、当直医の指示により、知里に解熱剤が投与され、午後九時には、熱は37.6度まで下がった。
(7) 午後七時までの二四時間に、便通は五回あり、そのうち三回が水様の下痢であった。
(8) 午後九時の時点で、風邪の症状はなかった。
4 二七日の知里の状況
(一)(1) 午前七時、体温は38.2度で、二六日の眼科の検査後、咳はなく、哺乳力も低下することはなく、口からの水分の補給には支障はなかった。
(2) 朝食はリンゴ汁を少々飲んだだけであった。
(3) 午前九時、体温は39.5度、呼吸数は四〇で、ぐずつき、顔面が紅潮していたため、解熱剤(アンヒバ一〇〇mgの三分の二)が投与された。
(4) 午前一〇時、体温が38.4度まで下がったものの、依然ぐずついていた。このときの心拍数は一二〇、呼吸数は四〇であった。
(二) 眼科の保倉医師は、二八日に知里を退院させることを予定していたが、二七日、小児科を受診すること及び症状によっては退院を延期して、小児科との共観にすることを指示した。
同日午前一〇時ころ、小児科の中医師は、知里を診察したのであるが、知里が診察時に啼泣し、咽頭には発赤がみられ、呼吸音は肺雑音等なく清であり、腹部は柔らかく平坦で膨満状態ではなく、皮膚の緊満度はやや減少しており、発熱と下痢が続いていることから、インフルエンザとの印象をもった。
そこで、中医師は、知里について、眼科との共観とすることとし、看護婦及び検査担当者らに対し、検血、炎症一般検査、肝機能検査、電解質の検査を指示するとともに、KN3B(輸液用の液体の商品名)に、フラビタン、ビタメジン、ビタミンCを加えた液による輸液を始めるよう指示した。KN3Bは、ナトリウム、カリウム、重炭酸とブドウ糖の含まれる液体である。中医師は、発熱と下痢が始まった翌日であること及び経口による水分摂取状況が良好であることを前提として、知里に対する輸液量を決定し、下痢の症状に対しては、止痢剤の投与を指示し、発熱に対しては、38.5度以上の熱があるときには、解熱剤の使用を指示した。
(三) 小児科受診後の知里に対する処置及び知里の状況
(1) 午前一一時一五分、中医師の指示により、右足首から、毎時二〇ミリリットルの速度による輸液が開始された。
(2) 輸液路を確保する際、血液検査等を実施した(なお、知里に対する血液検査はこれ以後なされなかった。)。その結果、ナトリウム値は一三五mEq/l、尿素値七mg/dl、ヘマトクリット値は35.6パーセントであり、いずれも正常範囲内にあり、ヘモグロビン値は11.1g/dlで軽度の貧血であった。
(3) 診察の結果、中医師は、知里を感冒性消化不良症と診断した。
(4) 知里は、昼食として、主食二口及び副食二口を食べた。
(5) 午後二時の体温は39.1度、心拍数は一〇八、呼吸数は四六であり、顔面紅潮があり、解熱剤であるアンヒバ坐薬が投与された。この時、四肢の冷感が観察された。
(6) 午後三時、体温は38.7度であった。母乳を哺乳しており、哺乳力は良好であった。解熱剤として、ポンタール1.5mg内服し、氷枕を貼用した。
(7) 午後四時、体温は38.9度であり、四肢の冷感が観察され、ぐずついた。二六日午後七時以後、不消化の下痢便が一五ないし一七回あった。
(8) 午後五時、体温は39.9度を超え、ぐずつきがあった。四肢の冷感はみられなくなった。
(9) 夕食は、主食を三口及び副食を三分の一程度食べた。
(10) 午後七時、体温は三九度、心拍数は一五八であり、看護婦の接触時にぐずつく様子であった。ポンタールを屯用した。
(11) 午後九時、体温は37.4度になった。
(四) 知里に対する水分補給量
知里は、母乳を二回摂取し、リンゴジュース一〇〇ミリリットルを一気に飲むこともあった。
輸液開始から午後四時までの輸液量は一七〇ミリリットル、午後四時から午後一二時までの輸液量は二〇〇ミリリットル、合計三七〇ミリリットルであった。
(五) 下痢・嘔吐
二六日の眼科の検査後、二七日午前七時までの間に、水様性の下痢便が七回あり、二六日午後七時から二七日午後七時までの間に不消化性下痢便が一五ないし一七回あった。
5 二八日の知里の状況
(一)(1) 知里には、午前一時から午前七時までの間、体の熱っぽさはなかった。
(2) 午前三時、看護婦が来室する際のドアの小さな音にも目を開け、ぐずった。
(3) 午前七時、体温は三七度、心拍数は一三四、呼吸数は四〇であった。
(4) 午前一〇時、体温は38.7度、心拍数は一四四、呼吸数は五六であり、機嫌は悪く、解熱剤ポンタール1.5ミリリットルを屯用した。また、看護婦、医師の接触に対しぐずつき不機嫌であった。
(5) 昼食は、主食及び副食を二、三口ずつ食べた。
(6) 午後二時、機嫌は不良気味で、体温は37.3度、心拍数は一三〇、呼吸数は四〇であった。
(7) 午後四時、不機嫌の様子で、体温は37.1度であった。
(8) 夕食は、主食及び副食を二、三口ずつ食べた。
(9) 午後七時、体温は37.6度、心拍数は一四四であり、しきりにぐずるものの、顔面は紅潮していなかった。
(10) 午後九時、体温は35.9度、呼吸数は二四であった。
(二) 中医師は、知里を診察し、下痢が軽快傾向にないことから、止痢剤を追加処方した。
(三) 知里に対する水分補給量
知里は、朝ジュースを二〇〇ミリリットル飲み、この日、母乳を三回飲んだ。
午前〇時から午前八時までの輸液量は、一八〇ミリリットル、午前八時から午後四時までは二七〇ミリリットル、午後四時から午前〇時までは一八〇ミリリットル、合計六三〇ミリリットルであった。
(四) 下痢、嘔吐
二七日の午後七時から二八日午前七時までの間、不消化の水様の下痢が四回みられた。
午前一〇時の時点で、このときは、排便が頻回であり、一〇回以上みられた。知里の下痢の回数は一時間に二回程度になった。
午後四時、排便は頻回で、黄色の水様の下痢であり、一〇回以上みられた。
午後九時ころ、ヨーグルトを摂取中、刺激がないのに、嘔吐した。
(五) この日、中医師は当直勤務であった。
6 二九日午後一一時ころまでの知里の状況
(一) 大手前病院の年末の勤務態勢
大手前病院は、二九日から昭和六四年一月四日までの間の治療体制は次のとおりであった。
医師は、内科系、外科系、産婦人科各一名が、午前九時から二四時間勤務する。看護婦は、日勤の者が通常より五、六名少ない勤務となり、夜間の勤務については通常と変わりがない。検査は二四時間前に検査室に連絡しておけば、検査担当者が出勤し、実施可能であった。二九日から三〇日にかけての当直医は、内科系が野村医師、外科系が久米医師、産婦人科が堤医師であった。なお、三〇日は、小児科外来の診察をする予定であった。
(二) 知里の状況等
(1) 午前一時三〇分、呼吸数は三〇であった。
(2) 午前三時、体温は、36.6度、呼吸数は三四であった。
(3) 午前七時体温は36.5度、呼吸数は三〇であった。機嫌は今一つよくなかった。
(4) 午前一〇時、体温は37.6度であった。
(5) 中医師は、前日夕方から当直であり、午前九時に当直勤務を終了したが、午前一〇時三〇分ころから一一時ころの間、知里を診察した。その際の知里の状況は、咽頭が発赤しており、呼吸音はやや粗く、心音は純、腹部は柔らかく平坦で、下痢をしており、食欲は減少していたが、皮膚の緊満度には問題がなかったので、中医師は、特に新たな指示はせず、午後〇時すぎころ、帰宅した。
(6) 午後二時、体温は37.5度であった。
(7) この日、知里は昼寝をしなかった。
(8) 午後七時、体温は三七度であり、不機嫌でぐずつきが多くなった。
(9) 午後九時、体温は36.5度であり、検温するとぐずついた。
(10) 午後一一時、体温は三六度、心拍数は一四二、呼吸数は四〇であり、ぐずつきが続き、声に活気がなかった。そこで、原告真美は、看護婦に対し、知里がぐずり眠っていない、衰弱がはげしいので不安であると訴えた。
(三) 知里に対する水分補給量
午前〇時から午後八時までの輸液量は一三〇ミリリットル、午前八時から午後四時までは三七〇ミリリットル、午後四時から午前〇時までは一六〇ミリリットル、合計六六〇ミリリットルであった。
知里は、朝から、母乳は全く受け付けず、昼食は食べず、すり下ろしたリンゴ三さじを飲んだだけであった。
この日の夕方ころまでは、ジュースを与えると何とか飲めていた(合計三〇〇ミリリットル位)が、徐々に飲まなくなった。午後一一時、母乳ジュースなどを口に含ませても押し出すようにして飲まなくなった。
(四) 下痢・嘔吐
この日、嘔吐はなかった。
二八日の午後七時から午後四時までの間、黄色泥状の便を合計九回(そのうち日中四回)した。二九日午後七時までの二四時間に、黄色泥状の便を一四回した。
7 二九日午後一一時ころ以降知里が死亡するまでの状況
(一) 二九日午後一一時、原告真美の訴えをうけて、看護婦が中医師へ電話連絡したところ、中医師は、眼科の領域の問題ではないかと考え、眼科医へ連絡するよう指示した。看護婦から連絡を受けた眼科の保倉医師は、眼科の所見としては問題が考えられなかったので、鎮静剤の投与を指示した。そこで、看護婦は、三〇日午前〇時、鎮静剤であるセルシンシロップ0.7mgを、哺乳瓶に入れて飲ませた。
知里は、なかなか眠らず、三〇日午前一時四〇分、ようやく眠り始めたが、寝返りすることが多かった。このとき、知里の眼窩部には、既にへこみが認められた。
(二) 三〇日午前三時ころ、原告真美が知里を抱っこしようとした際、点滴注射の抜針に気付き、看護婦詰所に連絡した。それまでは、点滴注射を行っていた知里の右足首部分には布団が掛けられていたため分からなかったが、点滴注射は添え木ごと外れており、足に巻かれた包帯はかなり濡れていた。
則岡重代看護婦(以下「則岡看護婦」という。)が駆けつけたときには、知里には、眼窩の陥没がみられ、点滴注射が抜針したところが腫脹していた。知里は、元気がなく、ぐったりした状態となっており、四肢の冷感が強く、顔色は不良、体温は37.3度、呼吸数は三〇、心拍数は一三二、血圧は九六/六〇であった。
このとき、知里には大泉門陥没が認められた[被告は、大泉門陥没は、中医師が午前六時四五分に触診し判明したことであり、同医師が知里の診療記録(乙一)中の「入院中経過処置要旨表」(以下「サマリー」という。)に「午前三時」と記載したのは、誤解に基づくものであると主張するが、診療記録(乙一)上の右時刻と大泉門陥没の記載位置、同日午前三時から午前六時四五分までの間、知里を観察していた則岡看護婦は、大泉門陥没の存在について記憶がないと証言するのみで、その存在について明確に否定はしていないこと、大泉門陥没は、脱水症の判定にとって基礎的かつ重要な指標であり、医療関係者としてはその発現時期に注意を払うはずであること(なお、被告は大泉門陥没があれば重大なことであるから看護日誌に記載するはずであると主張するが、被告の主張する午前六時四五分時点の所見としても、それは看護日誌、カルテ共に記載されていない。)、昭和六四年一月六日には医師と看護婦全員で知里の治療に関し検討会を開いていること、被告は本件訴訟においても当初は午前三時の時点における大泉門陥没の存在を認めていたが、平成二年一〇月二二日提出の準備書面において初めて右時点における大泉門陥没の存在を否認したこと、以上の事実に照らすと、被告が主張するように中医師がサマリーに、大泉門陥没の発見時期を誤って記載したとは解されない。]。
そこで、則岡看護婦は、輸液の再開のためには、四肢を暖めることが必要であると考え、知里にパジャマのズボンを着用させた上、電気あんかを入れ、保温に努めた。
なお、午前三時ころより前に、知里は、リンゴジュースを五〇ミリリットルを飲んでいた。
(三) 同日午前四時一〇分ころ、知里の心拍数は一二六、呼吸数は三〇であり、四肢が少し暖かくなった。
則岡看護婦は、原告真美が心配したため、内科系の当直医であった野村医師に診察を依頼し、知里を看護婦詰所に連れて行った。
午後四時二〇分から、同六時までの間に、看護婦が知里のおむつを交換したところ、知里は、啼泣し、ジュースを、四回程度に分割して与えたところ、口渇だった様子で、これを一気に飲み、合計二〇〇ミリリットル位を摂取し、嘔吐することはなかった。
(四) 野村医師は、午前四時二〇分ころ、看護婦詰所に到着した後、知里に対し、駆血帯を巻いて、表在静脈を穿刺する通常の静脈穿刺を試み、更に午前六時ころ同様の試みを行ったが、結局点滴注射の針を挿入することができなかった。
野村医師は、知里の右状況に照らし、当日の外来担当医師の出勤を待つのは相当でないと判断し、午前六時ころ、則岡看護婦に対し、中医師を呼ぶように指示した。
則岡看護婦は、同じころ、中医師に電話をし、野村医師が知里に対し経皮的静脈穿刺を試みたが失敗したことを伝え、できるだけ早く病院へ来て、輸液を施行する必要があると連絡した。
この時点で、知里の体温は37.1度、心拍数は一二〇であり、体幹部の冷感はなかったが、四肢の冷感があった。
看護婦は、午前六時三〇分、知里の四肢に綿とホイルを巻いた上、抱っこして四肢及び全身の保温に努めた。
(五) 中医師は、午前六時四五分頃、看護婦詰所に到着したのであるが、知里は、このころ、声を出したり、いやいやしたりするなどの反応がみられた。
中医師は、輸液を再開し、必要な薬剤の投与経路を確保するために、輸液路の確保が必要であると考え、経皮的静脈穿刺を試みたが、成功しなかった。その間、知里は、次第に元気がなくなり、ぐったりしてきた。
午前七時二〇分ころまでに、中医師は、輸液路を確保するためにはカットダウンをする必要があると判断し、外科当直久米医師及び産科当直堤医師に連絡し、応援を依頼した。午前七時三〇分ころまでに、知里の脈拍は弱く触れにくくなり、循環不全の症状が認められた。
その後、中医師は、四肢の保温に努めながら、末梢を暖めて、脈拍を触知し、さらに経皮的な輸液路の確保に努めつつ、看護婦に切開の用意を指示しながら、応援の医師の到着を待った。午前七時五〇分ころ、久米医師と堤医師が看護婦詰所に到着した。三名の医師が、知里の正中静脈、外頸静脈、内頸静脈、中心静脈のうち、どこに輸液路を確保するかを検討しているうちに、知里の呼吸が微弱となったため、酸素投与をした。ところが、酸素投与中に噴水状の嘔吐があり、知里がこれを吸い込み、呼吸が停止した。中医師らは、吐瀉物を吸引したが、午前八時三〇分ころ、心臓停止するに至った。
そこで、中医師らは、蘇生を開始し、挿管の上、心腔内にボスミンを投与するとともに、鎖骨下静脈穿刺して輸液路を確保し、メイロン、ボスミン及び塩化カルシウムを投与した。
午前九時一五分ころ、辻野芳弘小児科部長(以下辻野部長という。)が到着した。三人の医師は、辻野部長に対し、知里が嘔吐し、呼吸停止し、心停止したと説明した。この時点では、知里は、既に呼吸をしておらず、心音はかすかに聞き取れるか聞き取れないかという状態で、瞳孔は既に中等度に散大していた。
その後、午前九時二五分、知里は死亡した。
二 争点1(知里の死因)について
1 脱水症の判定について
証拠(甲二、七、八、九、一〇、一九、二〇、本田敦子証言、辻野芳弘証言、一色玄証言、一色鑑定)によれば、次の事実を認めることができる。
(一) 脱水症の区分
脱水症は、血清電解質の値により細胞外液の状態を知り、それと物理的に濃度平衡を保っている細胞内液の状態を推測することにより、高張性、等張性及び低張性の三種に区分される。
細胞外液の状態を知るための指標としては、血清ナトリウム濃度が用いられる。血清ナトリウム濃度が一三〇ないし一五〇mEq/lのものを等張性脱水症、一三〇未満のものを低張性脱水症、一五〇を越えるものを高張性脱水症という。細胞外液の濃度が低ければ、細胞外液は細胞内に流入し、逆に高ければ細胞外に流出することとなる。したがって、細胞外液の濃度の高い高張性脱水症では、脱水症状は外見的に著明ではない。
(二) 脱水の程度
乳児の場合、体重の減少が五パーセントまでの脱水症を軽症、五ないし一〇パーセントの場合を中等症、一〇ないし一五パーセントの場合を重症という。
(三) 脱水症状の判断基準
(1) 検査所見による脱水症の判定
① 体重の減少の程度により、脱水の程度を知ることができる。
② 血液検査の結果、血清Na濃度の値により、高張性・低張性の別が分かる。
ヘマトクリット、赤血球数、血漿総蛋白及びヘモグロビン濃度は、等張性脱水では脱水程度と比例して上昇する。
動脈血ガス分析の結果、ベース・エクセスがマイナス一五mEp/l以上の場合は重篤である。
BUN(血液尿素)は、腎機能低下に比例し、BUN、GOTの値が上昇する場合は重症である。
③ 尿比重が1.020程度の場合は軽症、1.025程度で中等症である。
(2) 臨床経過による脱水症の判定
体液喪失量の推定に関し、発病から現在までの一日の水分補給量を概算し、発病から現在までの一日の下痢、嘔吐の回数、一回の量などを聞いて体液の喪失量を推定し、その不足量を推定する方法がある。
乳児の一回の下痢便の水分量は五〇ミリリットルから二〇〇ミリリットルに及ぶことがある。
母乳は、一回の授乳で約二〇〇ミリリットル摂取されるといわれる。
発熱や多呼吸の有無も脱水症判定に重要な意味を持っている。発汗や多呼吸による水分の喪失量も無視できない。
(3) 臨床症状による脱水症の判定
脱水症では、脱水兆候、循環障害、中枢神経症状、体重の減少などがみられる。
① 脱水兆候
脱水兆候として客観的な指標となるのはツルゴール(皮下組織の弾力性)の減少、大泉門の陥没、眼窩のくぼみなどである。
大泉門と眼球の陥没がみられるときは、中等症から重症に分類される。
なお、これらの症状は、低張性脱水症には著しく、高張性脱水症には少ない。高張性脱水症では、ツルゴールの低下、眼窩・大泉門の陥没、脈性の変化、四肢温の低下など、いずれも軽度であり注意しなければ見逃してしまう可能性がある。
② 循環障害
循環血液量の減少により、末梢循環不全の症状、脈性不良(進行するほどふれにくくなる)、チアノーゼ、頻脈(重症でP一六〇以上)、血圧の低下、尿量の減少などが現れ、四肢は冷たく、皮膚は蒼白となる。等張性脱水症の中等症では、四肢冷感と皮膚蒼白がみられる。低張性脱水症では、特に循環障害が強く現れるが、高張性脱水症では細胞外脱水の程度は少ないので、循環不全の症状は出にくい。
脈拍がふれにくいときが中等症、ふれないときが重症である。血圧が低下しているときは中等症から重症である。皮膚色が蒼白な状態が中等症、チアノーゼが出現し斑紋状になった状態は重症である。
③ 中枢神経症状
等張性脱水症では、不機嫌、ぼんやりと無欲状態、脱力状態、うとうとしがちになるなどの症状(軽症)から、進行すると不安、興奮、傾眠(中等症)、昏睡し泣かない状態(重症)に至る意識障害が強く現れる。腱反射減弱、筋緊張の低下がみられることもある。
低張性脱水では、脱力、傾眠がみられ、脱水症の程度が進むにつれてその程度が著しくなる。
高張性脱水症では、脱水が軽度であれば、不機嫌、中等度であれば、うとうとしているが、ときどき頭を左右に振って、ぎゃーと泣くような状態(易刺激性)となり、高度になると、昏睡、痙攣といった症状がみられる。被刺激性が高まり、不穏状態、興奮状態を示す。眠りが浅くなり、わずかな刺激にも反応する。腱反射も亢進する。
口唇粘膜、舌の乾燥がみられ、高張性脱水症では、高浸透圧血症のため渇中枢が刺激され、脱水の程度が進むにしたがって、口渇を強く訴えることがある。
2 知里は脱水症であったかについて
(一) 前記争いのない事実、前記一及び二1で認定した事実並びに証拠(甲二、七、八、九、二〇、辻野芳弘証言)によれば、以下の事実を認めることができる。
(1) 検査結果
① 知里は、二四日に大手前病院に入院する際の体重測定がされ、その時の体重は七七一〇gであったが、その後体重測定はされていないので、その後の体重の増減は不明である。
② 血液検査は、二六日午前一一時ころ実施され、その際に、高張性脱水または低張性脱水を示すデータは得られなかったが、その後は死亡するまで実施されていない。
(2) 臨床経過
① 必要水分量
乳児が通常必要な水分量は、体重一kgあたり一日一〇〇ないし一五〇ミリリットルであり、二四日の知里の入院時の体重が維持されていたと仮定するならば、知里は、一日七七一ないし一一五五ミリリットルを必要としていた。
② 水分喪失
ア 排尿ないし下痢による水分喪失量は、おむつの重量を計測し、乾燥したおむつの重量と比較することで算定することが可能であるが、大手前病院において、知里に対しては実施されていない。
乳児の下痢による水分喪失は、一回五〇ミリリットルから二〇〇ミリリットルに及ぶ。
知里は、二六日の目の検査後から、下痢が始まり、二六日午前一〇時ころから二七日午前七時までの間に水様性の下痢便が七回あり、二六日午後七時から二七日午後七時までの間に不消化性下痢便が一五ないし一七回あった。二七日午後七時から二八日午前七時までの間不消化の水様性下痢が四回見られ、二八日午前一〇時及び同日午後四時の時点では、下痢は頻回であった。二八日午後七時から二九日午後四時までの間、黄色泥状の便を合計九回(そのうち日中に四回)し、二八日午後七時から二九日午後七時までの間では黄色泥状の便を合計一四回位した。
イ 乳児の不感蒸泄は、体重一kgあたり三〇ないし五〇ミリリットルであり、知里の入院時の体重が維持されていたと仮定するならば、二三一ないし三八五ミリリットルである。体温が三七度を越えて一度上昇するごとに約一〇パーセント増加する。
知里の体温は、二六日は、37.2度から38.9度、二七日は、37.4度から39.9度以上、二八日は、35.9度から38.7度、二九日は36.5度から37.6度の間であった。
知里の呼吸数は、二六日の検査前には三〇であったのが、二七日には最高四六、二八日には最高五六まで達することがあった。
③ 知里の水分補給量
ア 中医師は、輸液量を、一時間当たり二〇ミリリットル、一日合計四八〇ミリリットルで設定し、その後これを変更することはなかった。
イ 知里が摂取した母乳の量を正確に測定することは不可能であるが、通常は一回二〇〇ミリリットルといわれる。
ウ 知里の水分補給量は、二七日は、輸液により三七〇ミリリットル、経口により母乳二回及びジュース一〇〇ミリリットル、二八日は、輸液により六三〇ミリリットル、経口により母乳三回及びジュース二〇〇ミリリットル、二九日は、輸液により六六〇ミリリットル、経口によりジュース三〇〇ミリリットル(この日、母乳は飲まなかった)であった。
知里は、二九日夕方まではジュースを与えるとなんとか飲めていたが、それ以降はジュースもほとんど飲まなくなった。
(3) 臨床症状
二九日午後から、知里は不機嫌であった。
三〇日午後一時四〇分の時点では、知里には既に眼窩のくぼみが認められた。
原告真美が同日午前三時、点滴注射の抜針に気付いたときには、周囲の包帯がかなり濡れており、点滴注射が抜針してから午前三時までの間に、既に相当程度、時間が経過していたことが認められる。
同日午前三時には、大泉門の陥没と眼窩のくぼみ、四肢の冷感及び顔色の不良が認められ、午後四時二〇分ころには、口渇が認められた。
そして、午前七時三〇分ころには脈がふれにくくなるなど循環不全の症状がみられるようになり、午前九時二五分死亡した。
二九日午前一一時ころの時点でツルゴールの減少が、三〇日午前三時の時点で血圧の低下が、同日午前六時の時点で頻脈が、それぞれ認められなかったが、その後の状況はいずれも不明であり、また、チアノーゼは認められず、尿量の減少は不明であった。
(二) 右認定事実、特に、知里の下痢による水分喪失状況、これに対する輸液量、経口による水分摂取量、更には、三〇日午前三時の時点において、知里には、大泉門の陥没、眼窩のくぼみ、四肢の冷感及び顔色不良が認められたことに照らすと、知里には中等症の脱水症があったといわざるを得ず、知里は、右脱水症により循環不全を引き起こし、死亡するに至ったと認められる。
(三)(1) 被告は、急激な症状の変化を理由として、脱水症による死亡はあり得ないと主張するが、前記一で認定した事実及び証拠(甲一〇)によれば、体液の急激な喪失によって死亡することがあり得ること、二九日の夕方ころから知里は経口による水分摂取が困難になっていたこと、三〇日午前一時四〇分ころには既に眼窩の陥没の症状がみられたこと、点滴注射の抜針は、時間的には、原告真美が右抜針に気付いた午前三時より相当程度前に生じており、その後経皮的な輸液は死亡に至るまでなされなかったこと、以上の事実が認められ、これらの事実に照らすと、決して急激な症状の変化が生じたということはできないから、その主張には理由がない。
また、証人辻野芳弘の証言中には、三〇日午前七時四〇分の意識消失(なお、その意味は一義的に明確ではない。)が、同日午前八時三〇分の心臓停止より先に起きていることを根拠に、死因が脱水症であることを否定する部分があるが、脱水症に伴う意識障害が、心臓停止に先立って見られることは証拠(甲二、七、八、九)に照らして明らかであり、否定する理由とはならない。また、意識消失は、知里の診療記録(乙一)中、看護日誌にのみ記載があるが、その記載者である則岡看護婦の証言によれば、その時間帯は、則岡看護婦は知里の治療には現実に立ち会っておらず、後に、中医師から聞いたことをまとめて記載したものであり、中医師が自ら記載したサマリーにこの点に関する記載がないことに照らすと、看護日誌のうち「意識消失」の記載がされた部分は信用できない。
(2) 鑑定の結果及び一色玄証言の信用性
鑑定の結果及び証人一色玄の証言は、知里の死因について、脱水症によると断定できないとするが、脱水症により死亡した可能性を完全に否定するものではない。
すなわち、二九日午後七時の時点では、中等度以上の脱水症を否定し、三〇日午前一時四〇分及び同日午前三時の時点での重症の脱水症の存在を否定するが、それ以下の脱水症の存在を否定していない。また、判断の前提事実の選択に関し、口渇及び三〇日午前三時の時点における大泉門陥没の存在を除外して判断している。
以上の諸点に照らすと、知里の死因が脱水症であるとすることと鑑定の結果及び証人一色玄の証言は矛盾するものではない。
(3) ライ症候群の可能性
前記一で認定した事実によれば、二四日から二五日にかけて、自宅でともに過ごした知里の兄がインフルエンザに罹患していたこと及び知里には二七日から発熱や下痢といった症状がみられたこと、以上の事実が認められ、これらの事実によれば、知里がインフルエンザに罹患していた可能性があるというべきである。
ところで、前記一で認定した事実及び証拠(甲四ないし六、一三ない一六、一九、乙三ないし五、七、辻野芳弘証言)によれば、ライ症候群は、急性脳症の一種で、臨床症状としては、急激な脳圧亢進症状である痙攣、反復的な嘔吐及び四肢の硬直等がみられること並びに嘔吐や痙攣がみられてから数時間のうちに死亡する症例は一般的ではないこと、知里には、脳圧亢進を示す大泉門膨隆とは逆の、大泉門陥没が認められていること、また、二八日午後一〇時ころの嘔吐を最後に、三〇日午前七時五〇分以降の看護婦詰所において噴水状の嘔吐をするまで嘔吐はみられなかったこと、以上の事実が認められ、また、本件全証拠によっても知里に痙攣があったとの事実を認めることはできない。
以上の認定事実に加え、中医師は、知里の死因について、ライ症候群の可能性を指摘する一方で、それが全くの憶測にすぎないと証言していることのほか、平成元年二月一三日に作成された死亡診断書(乙一)に、死因に関しライ症候群との記載はないこと、知里の解剖がなされず剖検されていないことなどをも考慮すると、知里の死因がライ症候群であるとの疑いがあるとはいえず、この点に関する被告の主張には理由がない。
三 争点2(被告の過失及び因果関係)について
前記一で認定した事実、特に三〇日午前三時に知里に中等症の脱水症が認められた事実を前提として検討するに、被告の医師及び看護婦らには、知里の治療に関し、知里が脱水症に陥り得ることを予測して、十分にその症状を観察し、経口による水分摂取が困難になった後、点滴注射が抜針して脱水症の徴候が認められた場合には、脱水症の進行をくい止めるために、直ちに輸液路を確保して輸液を再開するべき注意義務があるところ、中医師は、二七日の知里に対する輸液開始時に血液検査を指示したのみで、その後は血液検査を実施することを指示せず、また、知里の入院の後、体重測定実施の指示もせず、三〇日午前三時ころには、知里から点滴注射が自然抜針したことが発見され、当時既に脱水症(中等症)の症状が認められたにもかかわらず、則岡看護婦は被告の医師へ同日午前四時二〇分ころまで連絡することもなく、また、野村医師が経皮的静脈穿刺法を何度も試みて失敗していたにもかかわらず、被告の医師は、知里が循環不全症状を呈する直前ころまで、静脈切開法の準備すら行わず、心停止前に鎖骨下穿刺も実施しなかったもので、以上の点に過失があるというべきである。
そして、前判示(前記一、二)の事実に照らすと、被告の医師及び看護婦らの右過失と知里の脱水症による死亡の結果との間に因果関係が認められる。
四 争点3(損害額)について
1 逸失利益 一三三二万四〇一八円
前記争いのない事実によれば、知里は、死亡当時〇歳であったところ、知里の死亡した昭和六三年当時の一八歳から一九歳の女子の平均年間給与額は一六六万七四〇〇円であったことは公知の事実であるから、もし知里が死亡しなければ同人は一八歳から六七歳まで四九年間就労可能であり、その間の生活費は年間給与額の五〇パーセントに相当する額とし、中間利息を控除するのが相当であるから、知里の逸失利益は、次の計算式により算出される一三六八万八六五一円のうち、原告らの請求の範囲内で、一三三二万四〇一八円と認める。
(計算式)
① 年間給与額 一六六万七四〇〇円
② 生活費 八三万三七〇〇円
(年間給与額の五〇パーセントに相当する額)
③ 四九年間の収入から中間利息を控除するための係数
16.41915774
[就労の終期(六七歳)までの年数六七年に対応するホフマン係数(29.02240486)から就労の始期(一八歳)までの年数一八年に対応するホフマン係数(12.60324712)を控除した数値]
(①−②)×③=一三六八万八六五一円(円未満切り捨て)
2 慰謝料 一八〇〇万〇〇〇〇円
前記一及び二1認定の事実、特に知里の年齢、死亡に至る経過、死亡の態様、被告らの過失の程度及び内容等諸般の事実を考慮すると、知里の死亡に伴う精神的苦痛に対する慰謝料としては、一八〇〇万円をもって相当と認める。
3 原告らは、知里の死亡により、被告との診療契約上の知里の地位を承継した。
4 葬儀費用 五七万五一〇〇円
弁論の全趣旨によれば、原告らが知里の葬儀費用を支出した事実を認めることができ、これは、相当と認められる額の範囲で、被告の債務不履行との間に相当因果関係のある損害と認めることができるから、右相当と認められる額のうち、原告らの請求の範囲内で、五七万五一〇〇円を損害と認める。
5 以上によれば、原告らは、各自、右1、2及び4記載の金額を合計した三一八九万九一一八円の二分の一に相当する一五九四万九五五九円の損害賠償請求権を取得したこととなる。
五 まとめ
よって、原告らの本訴請求は、それぞれ右一五九四万九五五九円及びこれに対する、催告をした本件訴状送達の日の翌日である平成元年一〇月一四日から支払済みまで民法所定五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由がある。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官見満正治 裁判官松井英隆 裁判官齋藤聡)